3.11以後の話②: 地震当日の体験
- 2018/06/02
- 08:00
●地震当日の体験
J)早いわね。もう息子がこっちに来て1年以上すぎたんだからね。
前に話したことと重なるんだけど、もう一度これまでの経緯を振り返ってみない?
S)そうやな。
去年(2017年)の3月の下旬、息子にとってはフィリピン移住前最後の国内旅行でおばあちゃんのいる岡山に行って、それからオレと二人で関空からマニラ経由でドゥマゲテ来たんやった。
あのあと入学手続きのために1ヶ月一緒に過ごして、4月の終わりに手続きが終わったのを確認してから息子を1人残してオレは日本に帰ったんや。
で、日本で5月から3ヶ月足らずの間、引っ越しの支度とかして、あんたと一緒にこっちに移住したんは7月の終わりやったな。
J)でも、私自身は今こうしてドゥマゲテにいるのが不思議よ。
まさかこうなってるとは結婚した当時は想像もしてなかったわ。
もっと言えば、2011年の3月11日まではね。
S)まさに。それはオレもおんなじや。
2011年の3.11がすべての転換点やったな。
そやから、あらためて振り返ってみることには意味があるわな。
J)そうね。
あれが今の私たちの原点みたいなものだものね。
S)ああ。あんまりうれしない原点やけどな。
J)でも3.11は本当に私たちの結婚記念日でもあるからね。そういう意味でも本当に原点かも...
S)あのとき、初めは何が起こってるんかわからんかった。
自宅の自分の部屋におったんやけど、地震があまりにも長くて強い揺れで机の上のブックケースは吹っ飛ぶし、びっくりして机の下に隠れたで~。
気づいたらCDラックも倒れて部屋は散乱状態になってた。
あとで調べたら家のあちこちに亀裂ができてたし、床下の土は軽い液状化の跡もあったのがわかったやんか。おかげで前の年になんでか知らんけど初めて入った地震保険の恩恵受けることできたけどな。
で、激しい揺れがいったんおさまったんで、気を取り直して仕事のために駅に行ってみたけど、電車は止まってたし、駅の一部も壊れてたし、電話もメールも通じひんかった。
J)私は駅近くで、ある会社の社員寮の管理人の仕事をパートでやっていたのだけど、初めて地鳴りを聞いたわ。ゴオーーっていう音が遠くから近づいて来るのがわかった。そして激しい揺れ!屋上の水道水のタンクが揺れで規定の量を超えた為に、警報音が鳴って怖かったわ。でも揺れが収まってから日常の業務に戻って掃除を再開したのよ。6階に上がったら、東側の遠くの方にすごい煙と炎が見えたわ。それで何か大変なことになってると思ったの。
S)ああ、それ、市原のコスモ石油のタンクの爆発やな。
J)あれはテレビの報道でもやっていたわね。映像見てもすごかった。
あの日、私たちの住んでいた首都圏は電車がストップしたからと歩いて帰宅する人、それを迎えに行く家族で道路の渋滞もひどかったらしいわ。それにその後の余震も多かったから震源地近くの人は本当に怖かったと思う。
でも何よりおどろいたのは東北沿岸の津波の映像よね。
S)ああ、現実とは思えへんかったな。
J)あれで亡くなった人、家や故郷の町を失った人、たくさんいたんだから。
それ考えたら胸が痛むわ。
S)でも、それはそれからの福島第1原子力発電所の核災害の始まりにすぎひんかった。
ここからはまた次に話そか~。